「学歴社会」のダブルスタンダード(2)
こんにちは、瀬潟です。前回の記事の続きです。すぐに更新するとか言いつつ結構日が開いてしまいました。
「学歴社会」のダブルスタンダードの1点目である「学歴」を学生に求めながら、学生の学びの過程と成果を軽視している点は、就職活動や学位保持者の待遇といったところに現れていると感じています。
就職活動において、企業は自身の事業ポートフォリオ、それに基づく採用計画に見合うだけの「優秀な学生」を獲得しようと躍起になっています。優秀な学生を判断する基準として「学歴」が大きなウェイトを占めていることは誰もが思うところだと思います。東大京大をはじめとする旧帝国大学に加え、一橋大学、東工大、早慶の学生は他の学生と比較して非常に有利な立場に置かれています。一方学歴が高いとは言えない学生は、会社説明会の枠が割り当てられないということも実際に起こっているようです。このように、企業や社会は「学歴」を重視し、「学歴」を学生に対して求めてきています。
一方で企業は「学習を行ってきた」という事実をそれほど重視していないように感じます。就職活動の過程では、学生がどのような学問分野を専攻し、どのような学習を行い、どのような成果(論文・学会発表等)にはほとんど注意が払われていません。逆に、サークル活動や課外活動での努力とその成果を尋ねてきます。「学歴」を求めているのにもかかわらず、必死に学習を行ってきた学生が評価されにくい選考方法ではないかと感じてしまいます。
学習の成果を評価しないのも同様です。学習の成果は様々な指標や考え方があると思いますが、私は学習の成果は「学位」であると考えています。すなわち、学士号や修士号、博士号です。学位についてはなかなか意識しないことが多いと思いますが、皆さんがよく目にする学位といえば、「医学博士」や「MBA(経営管理学修士)」などではないでしょうか。大学を卒業している方であれば、卒業時に何らかの学位が授与されているはずです。ちなみに私は学士(農学)を保持しており、今年度、修士(農学)を取得予定です。
海外(特にアメリカと欧州)においては、「学位」は自身の専門性を示す必須手段であり、博士号を保持していると年収が増加するというのは当然のことと考えられています。場合によっては、何らかの職位に就く際に修士号や博士号が求められることも往々にしてあります。
2点目である「学歴」を国民に求めながら、学歴の形成を支える文部科学政策が貧弱であり、かつ方向性が間違っている点については、国立大学の処遇、奨学金制度といったところに現れていると感じています。
資源のない国である日本にとって、教育を重視し、大学・研究機関の研究力を強化していくことは、「人という資源」を長期にわたり安定的に確保し供給していく点で非常に重要です。それにも関わらず日本においては、「教育」特に「高等教育」に関しては「贅沢品」としてみなされているように思います。
国立大学の授業料は年々増額され、現在では年間53万程度の水準になっています。
国立大学は独立行政法人となり、予算が減らされる傾向にあります。研究費や運営費が削減され、教員一人当たりの学生数が増えるとともに、研究以外の雑務が増えています。私の所属する研究室は教授・准教授の2名体制です。その一方で学生は課程博士4名、修士課程3名、学部生5名が在籍しています。教員1人が6人の学生を指導しているという状態です。
奨学金制度も世界標準からかけ離れています。日本における主要な奨学金は「貸与型」となっています。これは奨学金とは銘打っていますが、実態としては借金です。世界的な標準では、「奨学金」とは「給付」される “scholarship” 「貸与」される “loan” とは明確に区別されています。
先日研究室のメンバーで飲み会をしたのですが、韓国から来た留学生(博士課程)と指導教官の先生とも日本の奨学金制度の話題になりました。彼女は、日本における奨学金の在り方を聞いて「ありえないですね」というような反応をしていました。
将来の国を支える若者への投資がなぜできないのでしょうか。やる気がないのでしょうか。
果たしてこの国に未来はあるのか。
そういえば、軍事研究はおおいにサポートしようとしていますよね。京大は拒否したというのを聞きました。学問の自由が大事だと。いろいろヤバい時代になっていると感じます。