ヴィパッサナー瞑想が執着からの解放をどう実現するかについて

in #japanese7 years ago (edited)

ここまだ半年ほどであるが、瞑想の可能性への興味が強くなっていて、少し言語化してみたいと思う。ちなみに瞑想歴は2013年11月からなので、約4年弱だ。

(これは初めて10日間のキャンプにインドのKanpurで参加したときのものだ。キャンプの外観だけだが。)

▼なぜ瞑想に注目しているのか…
自分自身の統制を高めるためのツールとしての可能性を感じるからである。僕は日々の生産性を追求する中で自分自身がいかにuncontrollableであるかを実感している。人間というものは、自分でも思っている以上に外部からの刺激や絶え間なく入ってくる情報にマインドレスに動かされていると思う。そしてマインドレスに動いている正にそのときにもそれに気づくことは稀で、意図して行動しているように錯覚していることが多いのではないだろうか。瞑想を通して、人間そのものの原理を体験を通して理解でき、それは面白そうだと直感的に思っている。
瞑想にも色々あるが、僕が主にしているヴィパッサナー瞑想によって執着から自由になる方法がどのような論理に支えられているかを簡単に説明してみたい。執着をなくす方法を知り、それを実践するのは統制を高める一つの良い試みだと思う。

ヴィパッサナー瞑想では執着を2つの言葉で表している。渇望と嫌悪である。

渇望:のどが渇いたとき水を欲するように、心から望むこと。切望。熱望。
嫌悪:憎みきらうこと。強い不快感を持つこと。

執着が生まれる仕組みは以下のフローで説明されている。
A.生命の流れ→B.接触→C.意識→D.認識→E.感覚→F.反応

具体的に説明する。

A.生命の流れ
まず生命の流れというのは、人間という生命が存在しているということである。そして人間には感覚器官がある。その存在そのものを示している。

B.接触
次に接触。生命そのものがあることで、生命と外部の刺激の接触が起こる。人間には皮膚があり、膝の上に蚊が止まる。これは接触となる。

C.意識
接触した事実を認知すること。これが意識である。膝の上に何か虫が止まている!!ということを知るということが意識である。

D.認識
接触が起こり、それを意識すると、 その接触が過去の経験と照らし合わせて良いものか悪いものか、そのどちらでもないのか判定する。これが認識である。蚊が止まりその接触を痒さを引き起こすものと認識し、悪いものと判定する。これが認識。

E.感覚
感覚。良いものであれば心地よい感覚、悪いものであればここちの悪い感覚を感じる。

F.反応
反応。 それに対して、良い感覚であればもっと欲しいという渇望、そしてそれが悪い感覚であれば、それに対しての嫌悪を生む。

ヴィパッサナー瞑想は、この流れを意識のところで留める試みとなる。ヴィパッサナー瞑想では自分の意識している部分を観察し、意識することに止め、それを繰り返す。それにより執着を引き起こす癖を直すのである。